卒業生インタビュー|太田田寸世里さん(タレント)|会報「紺青」バックナンバー


私の七高時代

タレント・太田寸世里=「紺青」第3号(1991年8月発行)掲載

私がまともだったのは、七高を卒業するまででした―と振り返る、そんな言葉がフッと浮かんで来る私の半生:1/3生です。それまでは背が高いことを除いては(たかだか175cm)、ごくごく普通の、まともな、どこにでもいる、平凡な、ノーマルな、特に他と違うことのない、一般的な女の子だったんです。

ところが、大学に入ったとたん落研に入ったのが運のツキ…。末広亭に通いつめ、落語家を目指してみたものの、「女に落語は向いていない」と言われてあきらめて、今度は新劇に走り、大学を中退してまで入ったのが、演劇集団「円」でした。そこで舞台女優を目指してはみたものの、「おまえに合う役はない」と言われてがっくりあきらめて、今度はお笑いに走り、小さい女の子とコンビを組んでデビューしたのがコント「ペコちゃん」でした。そこで何とか目鼻がつきかけたものの、「すせりさん、子供できちゃった」と言われて、大騒ぎで結婚させて、私一人になったので、今度は一人でもできるレポーターになって現在に至る。来年は違うものになっているかも知れません。

こんな1/3生を送っている私ですから、七高の思い出というとどれも平凡なものになってしまいます。

1期生なので4クラスしかなく、先生も10人位だったので、教頭先生が授業をしたりしてまるで分校だったこと。校舎の建設予定地に咲く月見草がかわいそうだと言って、「学校を建てるな」と上の住宅地のおじさんに反対されたこと。その、反対をしていた上の住宅地のおじさんの子供が、のちに七高に入ったと聞いて、その子にお礼をしに行こうかしらと思ったこと。七里ガ浜に土左衛門が2回流れついたこと。こんなこと位ですかね…。校舎も、体育館も、ほとんど使わずに卒業してしまいました。校歌ができたのも卒業式の1カ月前という、ちょっと悲しいことも多かった3年間でした。

だからでしょうか、懐かしむ時に浮かぶのは「人」なんですよね。4クラスしかなかったので、全員の名前(旧姓)を覚えています。口をきいたことのない人っていないし、卒業後に会っても、同じクラスになったことのない人の方が少なくて、話題には事欠きません。同じ苦労をして、同じ体験して、同じエピソードを持っている―なんだか戦友みたいですけど、そんなクラスメート達が私の七高の思い出です。

勉強して、バスケに夢中で、友達やライバルと過ごした3年間、とっても輝いていますが、「もう一度あの頃に戻りたいか」ときかれたら、「もうあんなに一生懸命に生きられないから思い出でいい」と答えてしまう。そんな私の七高でした。

●おおた すせり=1979年3月卒業・1期生。東海大学文学部広報学科中退後、コントコンビ「ペコちゃん」結成。85年テレビ朝日系「テレビ演芸」にてスカウトされる。88年のコンビ解消後は、「ペコちゃん」の芸名で、テレビ朝日系「独占!女の60分」のレポーター等、TVや舞台など多方面で活躍中。現在、片岡鶴太郎さん、山田邦子さんなどと同じ太田プロダクション所属。

※太田さんの執筆者紹介のみ91年の会報掲載のまま再掲します。それ以降現在までについては、ご本人のブログや所属されている太田プロダクションのHPなどをご覧下さい。

太田さんは2005年11月の七高創立30周年記念行事にもゲストとして登場され、また2006年3月2日(金)午後1時20分から放映のテレビ朝日系列「徹子の部屋」に出演されました(永六輔さんとの共演、なお現在の芸名は「オオタスセリ」)。