歴代校長回想録6|会報「紺青」バックナンバー


思い出すままに

第六代校長・内野秀夫=「紺青」第8号(1996年9月発行)掲載

校長の仕事の一つに、学校の授業や行事、部活動などいろいろな教育活動が支障なく展開できるように常に心掛けて施設・設備の整備充実を図るということがありますが、私のおりました頃の七高は既にあちこちに傷みが出てきていて、その一つに体育館の雨漏りがありました。

その前年、ひどい雨台風のために屋根がはがれて体育館の床が水浸しになり体育科の先生方が総出で文字どおり徹夜の作業で大事な床を守ってくださったとお聞きし、簡単な応急処置のままになっている屋根の改修が急がれる状態でした。早速県に話をもって行きましたところ、承知はしていますが何分相当の予算を伴う大工事なので……とどうもすぐに着工という訳にも行かぬ様子。こちらもああそうですかという訳にはと てもゆかず、事務長さんにもお願いをして何度となく波状攻撃を繰り返し、かなり時間も掛かりましたが何とかやっていただくことができました。工事そのものは、それなりの日数はかかりましたが、既存の屋根の上に新しい屋根(ゴムのシート?)を重ねて貼るというものでした。技術の進歩ということでしょうか。

また、校舎の壁面の痛みも気になるところでしたが、ある日南棟の屋上部分から石器時代の石斧もかくやと思われるような鋭利に尖った石片が落下してきました。幸いに怪我人もなくさしたる被害もなかったのですが、それにしましてももしあれが人の頭にでも当たったらとゾッとしました。これまた早速その石片を持って事務長さんと県へ行き、事は人命にかかわる重大事ゆえすぐにも補修工事をとお願いをしたところさすがに今回は承知しましたという返事を貰うことができました。工事は南棟壁面の全面的な補修工事となり、これは足場を組みシートを掛け日数もかかり騒音も出るといった具合で少々大変でしたが、ともかく危険な状態は無くすことができました。

運動場のスプリンクラー。これまた機能劣化で交換改修が望まれる状態でした。九二年の夏は暑く雨の少ない年で、特に九月に入ってからは連日の晴天猛暑が続き、スプリンクラーがほとんど作動せずこのままでは体育の授業に重大な支障が出るし、風でも吹けば近隣住民にも大いに迷惑を掛けることにもなる。体育科の先生方の発案で、消火栓を活用してはどうかということになったのですが、悲しいかな校長というものは消防規則とか水道料のことだとか消防署への連絡などいろいろなことを心配するものでして、ともかく消火栓ホースの点検と散水実験をするということにして実際に水を撒きました。乾き切った地面は勢いよく水を吸い込み生き生きと蘇りました。この時も体育科の先生方を中心に多くの先生方が協力して当たってくれました。先生方の真剣な熱意の勝利でした。ただしこの時の点検・実験は口実ではなく、結果的には文字どおり意味のある点検・実験となりました。というのも、ホースのかなりの部分がひどく傷んでいて、ほとんど使用に耐えないものもあることが判明したからです。送水すると長く連結した途中で至るところから水が噴き出す始末でした。残念ながらスプリンクラーの全面改修は力及ばず私のときにはできませんでした。

運動会、七高祭、なぎさマラソン、合唱祭や宮崎まで応援参加したサッカー部の全国大会出場に巡り合わせたこと、毎年大勢の卒業生が見える教育実習など思い出は尽きません。 明るく生き生きした生徒諸君と、毎日その表情を変える七里ガ浜の海、私にとって七高は本当に素晴らしい学校でした。

●うちのひでお=1991年4月より93年3月まで2年間七高在職