歴代校長回想録4|会報「紺青」バックナンバー


創立十周年のことなど

第四代校長・濱島辰夫 =「紺青」第5号(1993年9月発行)掲載

創立十周年記念行事は儀礼的というより、「簡素なうちにも、中身のあるもの」ということで、式典後の演奏会に重きを置くことにしました。「N響アンサンブルと東京打楽器合奏団」による約一時間半にわたる熱演となったわけです。アンコールでは、直前に配られた楽譜による校歌で、一同、大いに感銘を受けました。年配の方が多い祝賀会の席で聞いた感想も上々で、特にドラムの多彩にしてダイナミックな演奏が話題となっていたことも覚えています。

昭和六十年四月、赴任して引継いだ事項の一つが、十月実施の記念行事でした。十月九日の行事が終わったときの安堵感と共に、これだけのエネルギーはどこから生まれてきたのかと考えさせられたことを思い出します。わずか半年の間で準備し、実施にこぎつけたのは、職員・生徒・PTA・同窓会が、それぞれの立場で十分話し合い、一旦、決まってからは、その目標に向かい、着々と仕事をすすめていったからです。当時をふり返り、ご苦労をかけた方々に、あらためて感謝の気持で一杯です。

野球部が漸く、県予選に初出場したのもこの年でした。「制約の中でのびのび野球」という見出しで、初陣で敗れ、涙を見せないチームとして新聞で報じられました。やるだけのことはやった、このさわやかな敗戦ぶりを等々力球場で目にしました。後に、この「すがすがしさ」は他の部活動にも共通しているのではないかと感じました。

同窓会も十周年に合わせて、会員名簿発行に踏み切らないと、年々困難となるのではないか、これは杞憂となりました。それどころか、母校創立十五周年として、名簿発行に加えて記念碑建立の知らせも受けました。若い同窓会も、多々、制約のある中で、あせらず地道にまとめあげた成果と、心強く思ったのであります。

時には強い日射し、時には強い海からのの風をうけながらも、一駅一駅、確実に進むあの江ノ電の頼もしい姿が浮かんできます。次の節目に向かって、七里ガ浜高校が一人ひとりの夢を紡いで進んでいってほしいと念願しております。

●はましまたつお=1985年4月より87年3月まで2年間七高在職