教職員の退任・離任


2007年3月31日をもって退任・離任された教職員の皆様のうち、当HPへの掲載のご了解を頂いた方のお名前をお知らせします。  
(他の離任者の方も、ご了解を頂き次第順次掲載します。)

●退任
川島敏郎(地歴公民) 在職年数7年 新任地等:定年退職、公文書館専門員・再任用
﨑山昭一(地歴公民) 在職年数13年 新任地等:定年退職、二宮高校教諭・再任用

●離任
小松原義徳(数学) 在職年数10年 新任地等:大原高校
木村 和彦(理科) 在職年数12年 新任地等:永谷高校
古平由美子(英語) 在職年数8年 新任地等:藤沢工科高校
堀田尚(英語) 在職年数3年
野田沙弥香(保健体育) 在職年数1年6ケ月 新任地等:藤沢市立鵠沼中学校・新採用

退任にあたってのコメント

●川島敏郎先生

2007年3月12日、私は満60歳の所謂「還暦」を迎え、同年3月31日をもって28年間にわたる教員生活にピリオドを打つことになった。私にとって、最後の因縁の地がこの七里ガ浜であったことはある意味で僥倖であったといえよう。何故なら、私が18歳まで生まれ育った静岡県棒原郡相良町須々木(現静岡県牧ノ原市)の海岸風景が、この七里ガ浜とぴったり合致しているからである。また、ご存知の方は少ないだろうが、私が高校時代に通学に利用した駿遠線(駿河国藤枝~遠江国袋井間)の軌道はまさに江ノ電と瓜二つで、悠長にのんびりと走っていたものだ。そのようなわけで、私は自分の故郷で教鞭をとっているんだという感覚を抱きながら、癒しの7年間を無事に快適に過ごすことが出来た。今は唯々感謝の気持ちで一杯である。

想い起こせば7年前、私はここ七里ガ浜高校で教員生活の最後の華を咲かす一大覚悟をもって栗原高校から赴任した。自分で言うのもおこがましいが、私は性分上、環境に適応するまでにかなり時間がかかるタイプである。しかし、この懸念も人懐っこい生徒と接し、談笑するうちに徐々に氷解していった。この時の生徒の何人かとは今現在でも旧交を温めている。同僚の先生方には申し訳ないが、最初の2年間はモラトリアム期間として、副担任の立場からのんびり様子を見させていただいた。その当時私は、2001年7月30日~8月1日に開催される全国歴史教育研究協議会(全歴研)神奈川大会の実行委員長という大役を委嘱されており、大会運営の準備と開催に向けて東奔西走の日々を過ごした。全国大会を大成功のうちに乗り切り、3年目にしてようやく担任となった。学年団の入れ替わりは多少あったものの、先生方のご協力をいただいて27期生234名の卒業生を世に送り出すことができた。教員生活最後の301クラスの生徒諸君には、卒業式当日にあっと驚くほどの心憎い演出をしていただいた。このことはいつまでも忘れることはあるまい。その後の2年間は、ほぼ学年を離れて主として日本史の教科指導を中心にお手伝いをさせていただいた。

七高生の印象としては、明朗・爽快な気風が漲っている反面、淡白で質実剛健に欠ける傾向がある。望むらくは、折角の潜在力に磨きをかけ、持続する志を発揮して何事にも果敢に挑戦して行ってほしいものである。失敗がある程度許されるのは若いうちだけであり、その失敗を糧にして大きく飛躍することを切望する。

退職後の私は、県立公文書館郷土資料課に再任用されることになった。教育現場からはしばらく離れるが、学生時代から地道にこつこつと続けている古文書による歴史研究ができる職場で、心機一転を図りたい。そして、20年以上にわたって研究している「大山信仰の研究」を、一つのライフワークとして意欲的にまとめたいと思っている。

七高では、在籍7年間にわたり公私ともにいろいろとお世話になった。最後に、七里ガ浜高校同窓生の皆様のご健康とご多幸を祈念して、擱筆することにする。

2007年3月31日、定年退職の日に。

※川島先生は2000年から7年間、地歴公民科教諭として在職。27期生=2005年3月卒業の担任及び学年主任。

●﨑山 昭一

七高での日々から
                                         
在任中の思い出をだらだら書いても面白くないので、赴任して間もない私に強く印象に残った二点に絞って書くことにしたい。一点は生徒のこと。もう一点は学校周辺の環境のことである。

まず生徒のことで目に付いたのは誤解を恐れずに言えば美人が多いことであった。授業をやるのに美人を捜すとは何事だと叱られるかもしれないが、私が感じたのは「きりっとしたルックスで、ものごとをきちんとこなす女生徒」の意味である。見ていると男生徒よりも女生徒の方が、授業中、学校行事全体にリーダー性を発揮していたし、現在もそのようである。

ところで前任校において、こちらが思うほど生徒が授業に興味を持ってくれないことに私は苛立ちを覚えていた。ところが七里ガ浜高校に来て、そうしたものはすぐに一掃できたことがうれしかった。教員として生徒に知ることや学ぶことの楽しさを考えて欲しかったので、授業ではそうした努力をしているはずであった。だが前任校での反応は期待したほどでなかった。しかし七里ガ浜高校に来て、その点が私と生徒達の間で一致してきた。一年目、最も印象に残っているのは日本史の明治から大正期の文化史を扱っている時に与謝野晶子の短歌を二、三首板書して、近代人女性の自我の発達について話した時だった。

 絵日傘を彼方の岸の草に投げ渡る小川よ春の水ぬるき
 清水へ祇園をよぎる桜月夜今宵会ふ人皆美しき
 柔肌の熱き血潮に触れもみでさびしからずや道を説く君

「前二首みたいな女性らしい感情の細やかさに対して三首目は激しいよね。女を抱いたこともないくせに世の中がわかったような偉そうな顔をするな、このバーカ。と女性から言われたら男の立場はないね。」との私の言葉に対し、教室中が反応し、「こうやって考えると短歌も文化史も面白いですね。」と言ってくれた生徒が、その後「歴史を勉強することの面白さがわかってきました。」と言ってくれた時は教員として最もうれしい言葉であった。これは一例にすぎないが、七里ガ浜の生徒はこうしたきっかけを与えれば本当に良く勉強に取り
組んでくれたと思う。

学校を取り巻く環境の素晴らしさは、私にも印象的であったし、その後来校した進路関係他のお客さん方からにも絶賛されていた。海を毎日眺めながら生活できることは贅沢と言えるであろう。その海も子細に見ていると季節により一日一日、また時間によっても表情を変化させていく。その中に厳しさやおおらかさを我々に与えてくれるものがあった。私は特に冬の透明感あふれる真紅の夕日が好きであった。天気の良い寒い冬の日、夕刻になるとカーテンを思い切り開いてサンセットショーに見入った。いつもアンコールしたかったが、夕日は決してアンコールには答えてくれなかったのである。

※﨑山先生は1994年から13年間、地歴公民科教諭として在職。18期生=1996年3月卒業、23期生=2001年3月卒業、26期生=2004年3月卒業の担任

●小松原義徳先生

・七里ガ浜回顧録 Ⅰ

10年前の3月の良く晴れた日。私は初めて七里ヶ浜駅に降り立った。
「なんて駅に近い便利な学校なんだ。」これが第一印象。
校長面接でいきなり野球部の顧問だと言われ動揺した。
確かに軟式野球は少し大学のサークルでやってはいたが・・・。
(なにせ本職は巨人の応援だったから)
こうして期待と不安では、はるかに不安のほうが大きい1997年4月1日を迎えた。

そしてかなりドキドキしながら最初の授業を迎えた。
前任校の8年間は難しい数学とはあまり縁のない授業をしていたので、七高生が賢く見えること見えること。

数学Ⅱを教えているときに、聞こえよがしに「数学BのM先生が数Ⅱも教えてくれればいいのに。」と言われ、へこんだこともあった。

野球部は顧問4人の完全分業制。週1回の練習と月1回の練習試合。これがノルマであり、言われたとおり部活の日は今は無き数学科の部屋でマネージャーの「終わりました」をひたすら待つ雇われ顧問そのものだった。
4月29日茅ヶ崎高校との練習試合。初めて生で観る七高野球部の試合。壮絶な打撃戦の末負けたが終盤では自然に大きな声で応援していた。エースは故障中だった。

そんなある日グランドに練習を見に行くと、故障中のエースがノックをしていた。監督が大学生のため、七里では普通のことだった。せめてこれくらいはチームに貢献しようと一心不乱にノックをしていた彼の手は血まみれだった。
気がつくと私はノックバットを握っていた。下手なりに自分がやらなくてはと決意し、翌日から着替えて毎日練習に参加するようになった。

大会前の高浜高校との試合後のミーティング。セカンドの栗原君が「今までこんなに自分たちの面倒をみてくれた先生の為にも勝とう。」と言ってくれた。彼らの勝利のためには、どんなことでもするぞと誓った瞬間だった。対戦相手校にはマネージャ-をつれて偵察に行き、ビデオをとって自分なりに敵のサインを分析した。こうして平塚工業高校との1回戦が始まった。

私は部長でもなかったので試合前のシートノックだけしてスタンドで太鼓を叩いていた。相手は格上の県大会常連校だったが 5回を終わって1対0でリード。しかしグランド整備が終わった6回から地力の差をみせつけられ、9回表を終わって1対5。スタンドの誰もが負けを覚悟した。

ところが、高校野球の神様は、ここから奇跡を演出するのである。

・七里ガ浜回顧録 Ⅱ

先頭バッターはキャプテンの伊藤君。昼休みもいつも黙々とバットを振っていた彼であるが、この日はノーヒット。この打席も3塁前のボテボテの当たり。 しかしこれが幸いして相手がエラー。
続く2年生の平野もライト前ヒットで続き、にわかに 活気づくスタンド。太鼓のバチを握る私の手も豆がつぶれるくらい叩きまくっていた。
「かっとばせ鐘ヶ江」みんなの願いを込めた打球が左中間を破りこれで2点差。
続くバッターも出塁し、球場は騒然とした雰囲気になっていった。
しかし、そこから内野ゴロ2つで1点差にはなったもののツーアウト。1番レフトの宮本君も追い込まれていた。
ツーツーからのストレート。見送り。

誰もがやられたと思った瞬間、判定は「ボール」 その後粘ってフォアボール。
2番平内が打った打球はしぶとく1・2塁間を抜きついに同点だ。この時点でスタンドは狂喜乱舞。私も泣きそうになるのをこらえて、次の栗原君を応援した。
ベイスターズのローズのテーマにのせてスタンドみんなで跳ね上がりながら絶叫していると、運命の打球はフラフラとセカンド後方へ。 5秒後。相手は全員グランドに倒れ、 こちらは優勝したかのように抱き合って泣いていた。
確かに高校野球の神様はいたのだ。

この奇跡の大逆転勝利が今でも私の心の支えになっている。

2回戦の横浜立野戦でも最終回に追い上げるが、奇跡は2度は続かず4対6。最初の夏が終わったのであった(この年、立野はベスト8まで勝ち進んだ)。

ほどなくして新生野球部は初の合宿を山中湖で行う。他のクラブが校外合宿をやるなか、野球部は顧問が嫌がり出来ないのだと聞き、6月に自分で下見して決めた場所。今考えると酷い軟式用のグランドであったが、初合宿というので多くのOBが参加してくれた。

合宿の仕上げに練習試合をしてくれたのは地元の都留高校。 そう今年の選抜に初出場するあの都留高校だ。大学時の友人が勤めていた関係で 組んでくれた試合だった。 試合は合宿の疲れもあり0対9の完敗。試合後、相手の監督は七里の弱点についていろいろアドバイスをしてくれた。 (その監督が2年前、新聞に過労死したという記事を見つけ、ショックを受けた。監督のためにも都留高校には是非頑張ってもらいたいと思う。)

こうして私の1年目は野球漬けの日々で終わっていったのである。

・七里ガ浜回顧録 Ⅲ

1998年2月。 七里で初めての合唱祭。優勝して盛り上がるクラスを見て、絶対自分のクラスが来年は優勝しようと野望を抱いたものだ。

4月。105の担任になった。みんなあどけない。でも良い子そうだと直感した。
クラTを作りに一緒に茅ヶ崎の店に行ったりしているうちに打ち解けて、男女とも仲の良いクラスになった。

今では考えられないが、大型バスを貸し切り、クラス合宿を山中湖で行った。当初38人参加予定であったが、出発当日が大雨だったこともあり33人で2泊3日した。雨の合間にモーターボートに乗ったり、夜には肝試しをしたりして、楽しく過ごせた。
最終日、台風の影響で東名高速は通行止めになり、中央高速は大渋滞。親からも文句の電話が入り、ヒヤヒヤものであったが10時間くらい掛かって藤沢に到着し無事終了した。

クラス合宿で団結を強めた105は七高祭でのお化け屋敷も成功させ、いよいよ合唱祭が迫ってきた。

他の1年生が全然盛り上がっていない中、105だけは朝練、休日練とやりすぎて、合唱祭5日前にはインフルエンザによる学級閉鎖となってしまった。

前日。 5組が優勝するようにと願をかけ、5枚のカツを買って食べた。
当日。緊張の中、全力を出し切って良い出来だった。しかしその後に歌った2年の壁はさすがに厚く、優勝は205の「方舟」(違う5組が勝ってしまった)。

しかし我が105は総合5位。学年ではダントツの成績で合唱祭好きの音楽の先生は、なんと105の音楽選択者の評価は全員4以上をつけてくれた。

カラーコピーで作った1枚だけのクラスのアルバムを配り、七里での最初で最後の1年担任を終えた。

・七里ガ浜回顧録 Ⅳ

4月。マネージャーが「先生。生意気そうで言うことをきかない1年生が沢山集まっていますよ。」
これが23期生との最初の出会いだった。

夏の大会1回戦の相手は大井高校。そう東名高速大井松田の大井である。それでも妻と2人で偵察にいき、その足で合宿の下見をしに朝霧高原も行った。

試合は思ったより苦戦し、7回の表を終わって5対6。1点負けていた。この代のエースは上鶴間との練習試合でノーヒットノーランを達成したこともある男で他にも粒ぞろいのメンバーだったので、まさかの展開だ。

7回裏に三橋のタイムリーで追いつき、さらに逆転したのも束の間、9回に8対8の同点に追いつかれた。9回裏。ツーアウト3塁のチャンス。
「キャッチャー。後ろにそらすと青春終わるぞ」
そんな野次がどこからともなく聞こえる中(誰かは想像できるでしょ)ツースリーから外角の変化球。
空振り。あー延長だと思った瞬間、ボールはバックネットの方に転がったのであった。
振り逃げサヨナラ。めったにない結末ながら2回戦に進出だ。

相手は藤沢翔陵。大会の一週間前の練習試合で補欠相手に嫌な負け方をした因縁の相手だ。
秦野球場へは遠いのでバスを貸し切って望んだのに雨天中止。しかし高校野球ニュースの取材をされ、かなり長く放映された。

しきり直しの翌日。またしても雨であったが強行された試合は1回戦とはうってかわり、力の全てをだしきったベストゲーム。途中ノーアウト満塁のチャンスを逃したのが響き、2点差の敗北だった。

新チームは上級生が少なく、練習試合で年間に3勝しかできないチームであった。

それなのによりもよって1回戦の相手は私学の横須賀学院。 4対15の5回コールド負け。
「来年は俺たちの分、おまえらが勝ってくれよ」 キャプテンの泣き声が印象に残る敗戦だった。

・七里ガ浜回顧録 Ⅴ

「1999年の7の月。恐怖の大王が空から降ってくる。」
これ昔流行ったノストラダムスの大予言です。我が家に「恐怖の大王」ならぬ「我が儘王子」が誕生したのが1999(平成11)年7月1日1時11分。
その息子もいまや7才。この4月で2年生だ。

さて、本題。 この年の205HRは前のクラスに比べ個性的な子が多く、最初の頃はまとまるか不安をもっていた。 しかし、抽選で飲食店の権利を得て文化祭にむけてだんだんと盛り上がっていった。

「なごみマグワイア」 。いったい何の店だかわからないが、れっきとしたパスタ屋だ。ゆでる時間が一番のネックであったが、千葉から「1分でアルデンテになる麺」を取り寄せ準備は万端。
さらに数学の時間をつぶして調理室を借り、全員で何種類かのソースを試食し、そのまま夏休みの家庭科の課題で提出したりした気がする。

クラス全員フル回転で2日間売りも売ったり。なんと27万円の売り上げを記録した。

この大成功をきっかけに沖縄修学旅行も楽しく過ごせた。レクでやった「小松原家の人々」は内輪受けしたが、まとまりの点に難があったのか208のパラパラにしてやられ3位。

そして合唱祭。テーマは「方舟に勝つ」。2年間同じ曲が優勝していて、これ以上続けば選曲の段階で決まってしまうことになりかねない。205ではじっくり考えて「島よ」に運命を託した。
当然のことながら、まわりのクラスを見れば昨年一緒に105でがんばったメンバーが各クラスの中心として、練習していた。205には合唱部はおらず、運動部の生徒も多かったので大変でしたが、指揮者、伴奏者を中心にだんだん、きれいなハーモニーを醸し出すようになっていった。さらに編曲をして勝てる曲に仕上げていった。

合唱祭当日。抽選でトップになったライバル208の「方舟」は、朝一番のせいか声があまりでていない気がしたが、確かにうまい。クラスとしてのまとまりでは、かなりのものだった。
そして205。曲はもちろん、入場から退場まで練習通り一部の隙もない出来だった。
これはイケそうだと思っているとその後に歌った207がうまい。やたらにうまい。
これが最後の合唱祭になるS先生の執念恐るべしである。

結果発表。この年は6位から発表されていった。ドキドキ。2位「207」(よし、これは・・・)。
優勝「205」。
このアナウンスを聞くと人目を憚らず泣いた。号泣だ。生徒の前でこんなに泣いたのは最初で最後である。

3月25日。打ち上げでみんなにおごってもらい地下の階段から上がってくると、プレゼントにケーキの箱をもらった。家に帰って開けてみると、なんとその中身は全員からの心のこもった手紙だった。一通ずつ読みながらまた泣いた。

・七里ガ浜回顧録 Ⅵ

2000年。新たなクラス308の担任になったのと同時に、分掌は生徒会になった。

当時の七里の生徒会は何年も前に手書きで作った原案を日付だけ変えてだしてくるという、それはそれはヒドイ組織で、生徒の顔が全く見えてこない生徒会であった。傍目から見て、せっかくの七高生パワーを充分発揮させていなかった。
手始めに運動会における騎馬戦の要望が生徒会役員からだされたので、いろいろ調べて提案するもあっさり却下。思った以上に壁は厚かった。

七高祭でも利益の一部はクラスに還元するよう提案するも反対にあい、その年にやっと導入でいたのは「金券制」のみ。以前はやたらに細かい仕入れ台帳とか売上伝票とかありかなり面倒だったので、生徒会本部は大変になるが将来的にクラスをもったときはやりやすくなると考え提案した。

308は抽選の結果「七高饅頭」になったが、金券売りに追われ自分はほとんどクラスに行けなかった。せっかく七高煎餅を注文生産したりして努力したが売り上げは飲食店には及ばなかった気がする。この抽選もなんとかしなくてはと秘かに思ったものだ。

さて、この年度の野球部。結成当初投手陣も充実し、かなりの期待をもって合宿に臨んだが、宿泊先の「ペーパームーン」にしてやられたのがケチのつけはじめだった。

合宿前日の電話。「球場近くで水道管が破裂して水浸しになり球場は使えない」と。
そんな馬鹿な。真冬でもあるまいし。思い切り疑ってかかり、到着して5分で謝罪させた。
「宿泊してもらいたいが球場がとれなかったので・・・。」
代わりのグランドは石ゴロゴロの普通の公園。激怒した監督(篤史の父)と私は食事のグレードアップ、マシンの使えるグランド、OBの宿泊料の無料化を要求してその場は収まった。

しかし悪いことは重なるものだ。地元のシニアつまり中学生チームとの練習試合はエースを火傷(海で日焼けしすぎ)で欠き、でるピッチャーはストライクが入らず挙げ句の果てに敗戦。
夜のミーティングでOBにこっぴどく叱られ、部屋に帰っても大荒れだったようで・・・。

翌日、予算が少ないので高速代をケチって、一般道を走っていると携帯が鳴った。「部屋に大きな穴が空いているので弁償して欲しい。」と。オイオイ。合宿から帰り、旅行会社と交渉の結果、逆に合宿代が半額返金された。いったいどんな交渉をしたのかは想像にお任せします。

話はその11ヶ月後。つまり夏の大会。1回戦は横須賀商業。偵察に神奈川大学付属高校のグランドまで行って来た。正直そうでもなさそうであったがエースが左腕であったので、1年生にカーブをたくさん投げてもらって打撃練習をした。

結果は9対2で7回コールド勝ち。前年のコールド負けの悔しさを晴らし、それを喜んで泣いていた前キャプテンが印象に残った。

2回戦の相手は日大藤沢。2年生を先発させる奇襲がうまくいき、3回まで0対1。結局むこうのピッチャーを打てず0対5。その後、その年の選抜で優勝した東海大相模と2対3の試合をした日藤相手に大健闘だった。

・七里ガ浜回顧録 Ⅶ

新監督には茂木君が就任した。驚く程普段から野球の指導法の勉強をしていて熱い指導と行動力で練習する環境が徐々に整っていった。本当に彼には感謝している。逆に彼が平日までも練習に来てくれるので私もついついグランドのでる回数が減ったのは確かだ。しかし、あの2年間は七高野球部の歴史に大きな意味をもったと思う。

1年目は1回戦の相手が深沢高校。相手のエースはこちらのエースと中学時代バッテリーを組んでいた男だった。試合は終始リードし、満塁のピンチもサードライナーでしのぎ、4対1の勝利。

そして2回戦は上鶴間高校。練習試合でも負けた相手だった。夏の大会に強いエースはこの試合も好投し2安打くらいしか打たれなかったが、4点とられた。最終回ノーアウト1,2塁のチャンスもあったがバントミスが響き、無念の敗退。

そして2年目。大会の1週間前くらいに、念願のマシンが買えた。砂浜以外での練習が許されなかった結成当初から考えれば夢のような話だ。しかし、いまだにカゴの中だけという制限つき。さらに音がうるさいので木製バットのみ。でもあの当時のメンバーは最後までマシン練習をやり続け、なんと試合の朝までやった。私も付き合って黙々とマシンにボールをいれて必勝を願った。

相手は湘南学院。共学になり2年目で未勝利校ではあったが、県大会の3回戦まで進んだ強豪だ。
相手はエースを温存し3番手くらいの投手を先発させてきた。さすがに温厚な私も、これには頭にきて、かなり厳しい野次を飛ばした。

試合は5回裏に追いつかれて2対2。6回さすがにピッチャーを代えてきた。一塁にランナーを置いて、バッターはキャプテン中谷。 直前の大船戦で初ホームランを打って彼はノっていた。
カキーン。打球はレフト場外へ消えていった。これには興奮した。そしてこの試合勝ったと思った。
(スタンドでは担任の酒井まゆみ先生も泣いたらしい。)

異常な雰囲気のなか、交代のコールが聞こえなかったり、足がつって退場する選手が出るなどして結局は負けた。練習試合の勝率も高くとても強いチームだっただけに、是非勝って欲しい試合だった。

さて、その2年間私は担任ではなかったので、生徒会の指導に専念した感がある。
運動会では応援旗の作成、部活動対抗リレーなどをはじめた。総合優勝という概念も導入した。
文化祭ではクラス企画のプレゼンによる選考を行った。飲食店の数も増加させた。それまでは屋台など一切許されていなかったのだ。
球技大会では実行委員会をつくり、種目の選定からじっくり話し合って運営した。
合唱祭では本命の2年生が抽選で1番にならないよう1年生、2年生の順に歌うようにした。
どれも生徒会の教員との打ち合わせや職員会議では、かなり反対があったり、嫌みを言われたりしたが、生徒会長を中心とした当時の本部のメンバーと一緒に行事を作り上げられたことは、今でも自分の財産になったと思っている。

・七里ガ浜回顧録 Ⅷ

2002年。この年は私の人生にとって大きな転換点となった。

1月8日11時11分。父が急死した。入院わずか2日であっけなくこの世を去った。
12月23日祖母が93才で死去したことが引き金になってのことであったが、まだ67才。

残された我々家族は、とてつもない失望感に包まれた。

3月。新居に引っ越し。結局父に見せることが出来なかったことが後悔され、そのことで夫婦喧嘩ばかりしていた。妻にしてみれば引っ越しで忙しかったのに、葬儀の後始末で実家ばかり行っていた私に不満があったのだろう。

前年から議論していたカリキュラムについては、英語、数学、国語などを必修にするため、 仕方なく65分×5時間にすることでようやく決着した。

こんなことが重なり、この時点で転勤を決意していた。実家の近く横須賀地区の高校にいくつもりだった。
そんな中、101の図書オリエンテーションの時間。どこからともなく「こまっちゃん」と呼ぶ声。
1年生の分際でなんて馴れ馴れしい子だと思った。たぶん担任の川島敏郎さんが、そう呼ぶのを真似たのだろう。遠足でも楽しそうにカラオケで盛り上がるクラスだった。(いつ言われても良いように心の準備をしていたが、結局私にマイクがまわってくることはなかった。)

運動会。ダンスのとき音楽が止まるハプニングがあり、生徒の申し入れで全カラー優勝にしたあの時の運動会だ。その前日104からクラスTシャツをプレゼントされた。副担任だからというだけなのに私の名前まで入れてくれていた。とても嬉しかった。授業中も雰囲気の良いクラスだった。

テスト前に補習をすると、毎回この2クラスの生徒は喜んで参加してきて、競うように勉強していた。
かわいいこの1年生たちのおかげで徐々に私も「教師らしさ」を取り戻せていった気がする。

12月。決着したはずのカリキュラムを見直す話が浮上した。
これではインパクトがないので、2年生は基本的に英数国全て選択科目にして「自主自律」の精神を尊重していくというのだ。数学科を中心に猛烈に反対した。「なぜ数学Ⅱを必修にすべきなのか」の論文までつくって校長に直談判もした。

2月18日。それを決める運命の職員会議。原案に賛否両論あるなか、私は会議の最後に、不覚にも涙ぐみながらこう発言した。「こんなことでは七里は鎌高に合併吸収されてしまう。OBでない自分がここまで熱くなるのは、卒業生から七里を頼むと言われたからだ。みなさん。もし自分の子供だったら、しっかり勉強する教育課程をもつ高校に進学させるのではないですか。」と。

しかし結果は思いとは逆になってしまった。

翌日、それまで1年にするか2年にするかずっと迷っていた私は2年担任を希望した。残った生徒を大事にすると言った川島学年に途中参加させてもらうことを決意したのだ。

・七里ガ浜回顧録 Ⅸ

10年間で一番グッときた卒業式はと考えると2004年3月の卒業式が思い当たる。

それも正確には卒業式の予行練習。
「来年この子たちも卒業してしまうんだな。」そんなことを思いながら206の生徒を眺めていた。

2003年4月。久々の担任。それもリリーフだったので最初から飛ばした。
入試の為には特に英語を勉強するよう初日から力説し、前に仕入れていた単語帳を欲しい人に配った。
また早速一人一人面談をしていった。印象としては、男子は一部を除くとおとなしめの子が多く、女子は他のクラスと同様に活発で明るそうだった。

運動会。クラス対抗リレーに優勝すべく、練習のときから206だけ真剣だった。
「伊東家の食卓」でやっていた靴の中にプチプチをいれる裏技や、ジャンケン走でどうやって速く抜けるかなどを、真面目な顔をして教えた。
そして、クラス対抗リレーではぶっちぎり優勝。ダンスも優勝したがこちらの勝利のほうが嬉しかった。教室に戻りジュースで乾杯をしながら「まず1勝だ。残りの行事全部勝つぞ。」と言うと妙に盛り上がった。

この言葉を実践すべく次の狙いは文化祭のプレゼン。クラス内プレゼンの末、「讃岐うどん」を破った「ロコモコ」で勝負だ。プレゼンに勝つため、まずは試食と5人で辻堂の店まで食べに行った。そしてその足でコンピュータルームへ直行し、末光を中心に何時間もかけてパワーポイントを完成させた。さらに情報の授業までもらってプレゼンのリハーサルを行い準備万端。これを米山・池田がプレゼンしたのだからある意味当然すぎる1位通過だった。

しかし生徒会は何を血迷ったか3クラスしかない屋内食堂のうち2つを「ロコモコ」にするという決定を下した。抗議したが聞き入れられず結局「ロコモコ対決」と称して生徒会でも盛り上げることで決着した。

そして文化祭。連日遅くまで残って客の流れや販売方法を議論し、装飾も海から砂を運んでくるほど凝っていた。2日間クラス総出で働き、上野がもってきてくれたトランシーバーのおかげもあって20万円を売り上げた。女子の衣装代がかさみ利益はほとんどなかったが、ダントツの売り上げだった。

体育館での表彰式。
「七高祭大賞は・・・201(やきそば)」 この結果にはクラクラきた。選考方法のまずさからなのは明白であったが、それにしても何を見ているんだ。ロコモコ対決の勝者はどうしたのだ。 頭に来て、残っていたタピオカをヤケ食いしたものだ。

その後10人くらいで我が家に来て残念会だ。この文化祭のリベンジは修学旅行のクラスレクでする。演劇に加えて、ダンスもやれば勝てるはずだということで、脚本、ダンス指導の担当者がこの時点で決定した。 なんとも気の早いクラスだった。

・七里ガ浜回顧録 Ⅹ

「GTK(グレートティーチャー金髪)」 これが206の修学旅行でのレクの出し物だ。
GTOと金八先生を足して2で割ったようなストーリーだったが、いつのまにか脚本が完成していて、私はお約束の不良少年役をすることになった。さらに秘密兵器としてのパラパラは全員で練習した。

一人100円の計算で2万4千円の商品総額をどうするか旅行委員会で話し合うと、賞金が良いということになり、優勝クラスには1万2千円。以下、2位は8千円、3位は4千円。こんな無茶な決定をあっさり許容してくれる学年団だったことに感謝である。この優勝賞金目指して各クラスも206に煽られて練習するようになっていった。当然206も優勝めざして、わざわざ休日まで集まって第2体育館で練習し、私は出発前なのに体中が痛くなった。

そして修学旅行。夕食はあまりおいしくはなかったが、クラス全員で楽しく食事できたのは良かった。(これがこの旅行でクラス全員で食べた最後の食事になるとは)夕食後翌日のレクの最終練習をした。時間を計ると25分かかる。10分の時間制限はどうするんだと言いつつ自由行動になった。
そもそも旅行が大好きな私は、夜も見回りだと言いつつ上野たちの部屋に居座り3時頃まで話をしていた。ようやく眠るとあっという間に6:00にセットした目覚ましがなった。
生徒を起こしに行かなくてはと思いつつ、まだベッドでウトウトしていると「小松原先生~。」というY先生の声。 嫌な予感は的中した。初日の夜(2日目の早朝)にして6名の不適切行動が発覚。うち3名が206だ。

朝から重い雰囲気の職員打ち合わせ。それ以降の行動をどこまで制限するか話し合ったがその夜のクラスレクに参加させるかどうかで珍しくもめた。なんとか参加させて欲しいと頼んではみたが、 形勢は明らかに悪かった。結局、彼らの昼間の行動をみてから決めることとなった。

ひめゆりの塔など戦跡を訪ねたあとリゾートホテルに到着した。コテージ型で広々とした室内。しかし私の心は晴れない。打ち合わせがあるからだ。彼らが出演できないなら206は辞退するとまで言った。始まるぎりぎりまで話し合い、結局自分たちのクラスの出し物だけは参加が許された。

205の「涙そうそう」が終わると次は出番だ。私の頭はスプレーで銀髪。清水に借りたボンタンで登場だ。体育館みたいなところで音響も悪く、直前の練習不足もあって劇自体はかなりグタグタだったが、パラパラはなかなかそろってみんなで踊った。201の「ウォーターボーイズ」には正直やられたと思ったが結果はなんと4位だった。あとでよく調べてみると生徒審査員の点数では2位だったが教員の受けが悪すぎた。

レクの最中にさらにトラブルもあり、その夜なんと私は一緒に生徒の部屋で寝ることになった。これは私への罰ゲーム以外の何物でもなかった。

翌日伊江島観光。自転車を押して登った山からの景色は最高だったし、少しだけ行った岩場で見た海もきれいだった。美ら海水族館を見学したあとの帰り道では無理を言ってバスを止めてもらいコンビニで買いだしをし、最後の夜は一つの部屋に集まってみんなでゲームをしたりして打ち上げをした。

こうして楽しくも胃が痛くなった修学旅行は終わった。

10月21日。私の37回目の誕生日だった。朝から他のクラスの子からはおめでとうと言われたのに何故か206ではそんな声もない。帰りのHRで教室に行ってみると誰もいない。
するとベランダなどに隠れていた生徒が一斉に現れ「ハッピーバースディ」を合唱してくれた。
花束とケーキと色紙と心のこもった手紙をもらった。こんなに嬉しかった誕生日はない。

・七里ガ浜回顧録 FINAL

2003年度の後半は補習を集中的に行った。進路実現の手助けのため、まずスーパーゼミを開始。
朝7:30からの授業は正直きつかったが当初多くの生徒が参加した。定期テスト前になると休日まで補習し、当日の朝までやったものだ。
そして放課後の勉強クラブのようなプロジェクトG。Gとは現役合格を意味する(もちろんジャイアンツのGとかけていた)。好きな科目を自分で勉強しながら、疲れるとお菓子でも食べたりして、楽しく受験勉強を始める狙いがあった。これは結局彼らが卒業するまで1年半くらい続けた。

12月の球技大会。男子はサッカー。女子はドッヂボールだけのエントリーだった。男女共に1回戦に勝利すると「先生。両方優勝したら焼き肉ね。」と言われた。戦い振りから見てサッカーは経験者が多かったので可能性はかなりありそうだが、ドッヂはハンドボール部の子もいないこともあり、ついつい「いいよ。約束な。」
12月30日。クラス40人中30人くらいが参加した焼き肉パーティーになった。つまりアベック優勝だったのだ。その後のカラオケもやったこともあり、一晩で財布が空になったのはご愛敬だ。

そして合唱祭にむけて熾烈な戦いが始まった。他の行事と同様に206が先行し、それに刺激をうけて他のクラスも練習に励んだ。201の指揮者パワー、202の難易度の高い選曲、204の曲を変えてまでの執念など、どこも特徴があったが、特に203の潜在的な音楽的才能とT先生の退職を優勝で飾ろうという目的意識の高さは、206にとって最強のライバルであった。

しかし我がクラスも実行委員を中心によく練習した。指揮者と伴奏者の息も合ってきて、いよいよ合唱祭はあと3日と迫っていた。

その日は土曜日であったが朝から一日中練習し、さすがに疲れて帰ろうと車に乗ろうとしていると、まだ打ち合わせが足りないというので8人でサイゼに行った。どうやったら優勝できるか、さらに2時間くらい泣いたり笑ったりしながら語り合った。

そこからは進級にからんだ問題もあり、あまり練習に顔をだせなかったが、当日の朝にみせてもらった演出は完全に私の予想を大きく上回っていた。何より嬉しかったのは清水も来てくれて40人全員で参加できることだった。

指揮者、伴奏者も含めて全員でサビから歌い始めた。そして
「雪山のような困難を乗り越えてきた私たち。今このとき頂点に立つ。」と叫ぶと藤沢市民会館は静まりかえった。見ていて鳥肌がたった。そして「山の輝き」を力一杯40人の心を一つにして歌った。 最高の出来だった。もうこの時点で結果は2の次になった。

ただ、準優勝で悔し泣きをしている生徒たちを、うまく慰めることが出来なかった自分の未熟さに、多少悔いが残ったのかも知れない。
そしてクラス解散の日。またしても沢山の贈り物をもらい、最後に全員で写真を撮った。卒業式みたいだと言って大泣きしていた生徒もいた。それくらい密度の濃い1年だった。

最近思うことがある。もしかしたら死んだ親父が、落ち込む自分と彼らをひき会わせてくれたのではないかと。

あれから3年があっという間に過ぎていった。その間、最も嬉しかったことは、2005年、久々の夏の大会の勝利だ。 有田が、上倉が、永井が打ち、椎名が良く耐えた会心の逆転勝利だった。監督のTさんには本当に感謝している。

2007年3月30日。最後に学校中を歩いて回った。思い出深い教室、特別教室、大階段、そして最後にグランドに一礼してきた。
17:30頃ついにやることがなくなった。いつもはあんなに忙しくて時間がなかったのに、今日は仕事がなくなることが妙に切なかった。全部片付けたはずの引き出しに物が残っていたとき、嬉しくなったものだ。でもそれもすぐに片付いた。

夕日が沈むのを見ながら転勤を知らない卒業生に電話した。忙しいところに変な電話をかけてしまって申し訳なかったが、懐かしい声を聞いて涙声になってしまった。

こうして私の10年間が終わった。何歳であろうと自分がそう思えば青春だと昔ドラマでやっていたが、それに倣えば私にとって七里ガ浜高校はまさに青春そのものだった。
日本中探しても、こんな良い思いをした教師はいないだろう。本当に自分は幸せものだと思う。

ありがとう七高生。