岩田先生より挨拶|会報「紺青」バックナンバー


向こう三軒両隣

元保健体育科教諭・岩田保生=「紺青」第10号(1998年8月発行)掲載

退職して早や三ヶ月が過ぎた。永い間の生活習慣は、そう簡単に変化するものではない。ただ、出勤して 授業、会議、部活といった拘束時間が、全く無くなったのは大きな変化である。自由に伸び伸びと、自分の裁量でいかなる生活時間もくめることの喜びは、格別のものがある。しかし一方では、こんなことで良いのだろうかという戸惑いのあるのも事実である。どの位の時間が経過すれば、これから何年続くかわからない先の年月の、一年間の過ごし方が確立するだろう。退職以前の、五十才を過ぎてからは、六十才を迎える迄の、心の準備、仕事への訣別の段取りなど、自分なりに計画し、ほぼ予定通り運んだと思っているが、これからの事は全くわからず、計画通り行くかどうか難しい。今は全く自然まかせである。

今から三十八年前の昭和三十五年四月、体育科専任教諭が私一人という小さな中学校で教員生活のスタートをきった。教科の指導計画、行事の企画、部活指導と初めてづくし。教科の先輩として相談する人もなく、戸惑いと心細さで過ごしたことを思い出す。若さと一生懸命が取り柄の新米教師であったが、この頃の学習が、後の私の教員生活の基盤となった。職員室の私の隣の席には、職場の大ベテランが配置され、私の教育係的に、教師としての心構え、指導のテクニックといった、最も大切な事をとても親切に教えて頂いた。また今では骨董的存在だが、鉄筆で蝋原紙に原稿を書き、手押しの謄写版で印刷した。どれもこれも手とり足とりの指導を受け、現在では考えられない程、全てが手造りといった環境の温もりを肌で感じ、感激しながら働いた。 七高で創立以来、二十二年間を過ごしたが、開校当時の間借り生活の時は、教師になって最初に教えられた事が大変役立ち、何もなくても不便を感じず、すべてが昔さながらの手造りで進んだ。しばらくの間、行事にしても、学習活動、部活動にしても、生徒諸君と手を携えての一体感のある生活が続き、それが後々まで、七高生と教員の格別な心の温もりとなって、その後の学校生活に好結果を及ぼしたと考えている。

「年々歳々花相似たり。歳々年々人同じからず」教師にも、生徒諸君にも毎年メンバーの入れ替えがある。ここ数年、七高の雰囲気に変化が現れている。学校生活に取り組む姿勢、学習への意欲、信頼の絆といったものが薄らいで来ているように思えてならない。現代社会のニーズによる教育の変化、教育環境の変化には大変なものがあり、頭の堅い私は、その変化に取り残されていきそうだ。教育器材も大きく変わって来た。通知票もコンピューター処理である。正確で、速くて処理的にはすばらしいと思うが、何故か温もりを感じない。機械処理をしたものなら、役所的手続きでこと足りる。担任が苦労して作り上げてコメントするこれ迄通りの通知票には重みがあり、温もりを感じるのだが。

私は時折、創立以来二十二年間の七高の様子と、自分の生涯とを重ね合わせてみることがある。小学生の頃の戦争体験。戦後の衣食欠乏の混乱期の青春時代。そして恵まれ、便利に完備された現代の中に生活している自分。 種々体験を重ね、自分自身の生活を反省しながら、三十八年間教員として関わった多くの生徒諸君と人間らしい接し方、生き方を身を持って教えられたであろうか。自問自答の毎日である。時は移り流れる。私達は、時の流れに翻弄され、大きなうねりの中で自分を見失ってはならない。今、自分の置かれた状況を的確に把握しておくことだ。何も以前の方が良かったというのではない。向こう三軒両隣といった近隣同志のつながり、助け合いといった人の温もりが少しずつ失われていることへの反省だ。人情が薄れ、他人に無関心になって来たとよくいわれるが、七高生の、人としての基本的賢さ、やさしさ、素晴らしさに変化はない。日進月歩から、秒進分歩の流れの中で機械化されていく今こそ、人の心をつなぐ手造りに重要な意味があり、多くの人が求めている宝物ではないだろうか。技術革新、近代社会と共に伝統文化、習慣等、失ってはならない貴重なものを考えて欲しい。七高同窓生諸君の更なる発展と賢明なる生き方を期待するものです。

●いわたやすお=七高開校時の76年4月から98年3月まで22年間七高在職。同年4月より七高バスケットボール部嘱託となり、06年3月をもって退任

※岩田先生には今回の退任を踏まえて、30年間にわたる七高での思い出をテーマにした文章を当HPにお寄せ頂きました。
岩田先生より退任の挨拶